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東京地方裁判所 昭和38年(ワ)10990号 判決

原告 玉井常子

右訴訟代理人弁護士 黒沢子之松

同 伊豆鉄次郎

被告 布施田源一郎

右訴訟代理人弁護士 中川恒雄

同 山口不二雄

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

請求原因事実(註―本件家屋が原告の所有に属し、被告がこれを占有すること)については当事者間に争いがない。

そこで被告の抗弁について判断する。

訴外木下ミサヲが昭和二七年三月頃本件家屋を原告から賃借したこと、被告が昭和二九年一〇月頃右訴外人と内縁関係を結び本件家屋に同居したこと、昭和三〇年三月三一日右訴外人が賃借名義人となつて本件家屋の賃貸借契約を更新したことは当事者間に争いがない。

右契約更新の際に被告が、ミサヲの保証人となつて、契約書に代るべき覚書にミサヲと共に署名押印して原告に差入れたことは、≪証拠省略≫によつて認めることができるが被告と右訴外人との間に本件家屋の賃借人を被告とすることとの話合いがあつたことおよび原告がこれを諒知していたことを認めるに足る証拠はない。

しかしながら≪証拠省略≫によれば、被告はミサヲと内縁関係に入り本件家屋に同居するようになつたが、前妻との間が種々の事情から法律上の離婚手続をなし難い関係にあつたため、ミサヲとの婚姻届出はしないままとなつていたものの、ミサヲの一人娘もまじえてふつうの家庭における夫婦、親子とほとんど変らない生活を営み、右訴外人が自己の姓を称して経営していた貸座敷料理店「木下」を手伝うかたわら、出版社の依頼により辞典の編集にたずさわつていたこと、昭和三〇年頃被告の営業名義で新宿区内に「翁」という飲食店を開業し、「木下」の方は女中に任せてミサヲと共にこの店に通つて約一年位営業を続けたが、被告が同店の使用人の女性と情交をむすんで一時他のアパートで同棲するようになつたため右「翁」は閉鎖し約二ヶ月の後被告はふたたびミサヲのもとに戻つて本件家屋に居住するようになつたがその間右家屋における「木下」名義の営業はぼつぼつやつていたものの再発足を図る必要から、ミサヲとの話し合いの結果昭和三三年頃被告の発案にかかる「芦庵」という名称に変更し、以後は被告の考案になる鴨料理を主な献立として被告みずから材料の仕入、支払、料理の板前などにも従事し、夫婦協力して働いた結果、被告の友人知己であるジヤーナリスト、芸能人、学者などが客の大半を占めるようになり、昭和三八年頃には一ヶ月の純益は約二〇〇、〇〇〇円にも達したこと、その間被告は「芦庵」から得る収入のほか、自己が辞典の編集をしてその顧問料として得た収入を生活費等に投じ、本件家屋の賃料も自己名義の小切手で支払つたこともあり、また本件家屋のふすまの張りかえ、畳の入れかえなどは自己が卒先してこれを発注したほか、同居中のミサヲの娘に対しても自己の真の子供と同じような態度で接し、ミサヲもまた営業上のことのほか、本件家屋の賃料の値上げについての原告との交渉などについても被告の判断を仰ぎ、或いは被告自らの交渉に委ねていたもので、被告とミサヲおよびその子は一般の家庭と変らない共同生活を営んでいたのみならず、取引先等もまた被告を右芦庵およびその家庭生活の主宰者と信じて疑わなかつたこと、の各事実を認めることができる。≪証拠の認否省略≫

そうして原告本人尋問の結果によれば原告はミサヲあるいは被告から殊更に被告がミサヲの夫であるとのあいさつはなかつたものの、原告の住居が本件家屋と約一メートルあまりしかはなれていないため、日常の生活を通じてミサヲと被告とが内縁の夫婦関係にあつたことを充分察知していたこと、および被告が本件家屋に居住してミサヲらと共同生活を営んでいることについてなんらの異議苦情等の申し入れもしなかつたことが認められる。

以上認定の事実によれば被告がミサヲに代つて賃貸借契約の当事者となつたとみることはできず、本件家屋の形式上の賃借人は終始ミサヲであつたものというべきであるが、しかしながら、被告も亦右訴外人と同等の立場で本件家屋の賃借人としての地位を取得したものとみるのが相当である。すなわち、一般に家族を構成する生活共同体が居住のために家屋を賃借する場合には、通常その成員のうちの一人が賃借人たる当事者として契約面に立ち現われるのであるが、その契約の効果として当該家屋を使用しうるという利益を享受するのはその成員全体であり、貸主はその契約当事者となつた個人との間で契約を締結するが契約の結果、その共同体全員が、賃貸家屋を使用するであろうことを当然のこととして予定し疑いをさしはさまないのが通例である。したがつてかような家族共同体との間の賃貸借契約については、賃借人はその構成員を代表するものに過ぎず、事実上はその構成員全員が共同して賃借したものと同視し得る関係にたつから、かかる賃借人の賃借物に対する使用収益権能は、その共同体が正常の形態で維持されているときは、一体として評価され、形式的には賃借名義人に帰属すべきことはいうまでもないところであるが、その共同体の構成が破綻にひんした状態に立ち至つたときは、必ずしもその形式にこだわることなく、実質的にこれを観察し、実質上当該賃借物の使用収益に伴う対価たる賃料債務負担の状況等をも勘案し、殊更にそれが賃貸借当事者間の信頼関係を著しく破壊させる事情にない限り、当該賃借権の実質的帰属関係を判断して、その実質上の帰属者にも賃借権者としての保護を与えるのを相当と解すべきところ、本件についてこれをみると、当初本件家屋の賃貸借契約は原告とミサヲとの間に締結されたが、その後右訴外人と被告とが同居するようになつてからは両人は法律上の夫婦関係にはなかつたものの、ほぼこれと変らぬ夫婦生活の実質を備えた関係にあつたものであるのみならず、契約更新に際しては、ミサヲの保証人として、本件賃貸借上の債務につき、被告もその責を負う立場に立ち、前認定のように本件家屋に居住する家族共同体の主宰者たる地位にあつたもので、このような賃借人側の内部事情と、原告がこのような家屋使用状況を黙示的に承認していた事情を考え合わせれば右更新後は被告も右訴外人と原告との間の賃貸借契約から生ずる利益を享受し本件家屋に居住してミサヲと共にその実質的な賃借人としての地位を獲得したものとみるのが相当である。本件家屋の賃借名義人がミサヲとなつていたのは従前からの名義をそのまま利用し、家主たる原告に対して右訴外人がその娘と被告を含む生活共同体の代表者として契約面に現われていたにすぎないものと認めるべく、この事実のみをもつて被告の賃借人としての地位を否定することはできない。

そこで原告の再抗弁について判断するに、昭和三八年一二月四日にミサヲが原告との間で本件家屋の賃貸借契約を合意解除したことは争いのない事実であるが証人木下ミサヲの証言ならびに被告本人尋問の結果によれば右合意解除をなすにいたつたのは昭和三八年頃に至り、再び被告が他の女性と関係を生じたため両者間が不和となり、口論の挙句ミサヲが本件家屋を飛び出した後、被告との内縁関係を解消し本件家屋から立退くことになつた際、同女の一存で、被告には何等の相談もしないまま原告に本件家屋を返還する旨申出て、独断で書面を差入れたものであり、被告は、依然本件家屋に居住して「芦庵」の経営をつづけているものであるところ、右のように内縁とは云え夫婦関係が正常の状態を失い破綻におちいつたような場合に、(本件の場合その破綻が被告の責によつて生じたことは明らかであるがそのことはさておいて)、たとえ賃借名義人たる地位を有していたとしても、家族構成の一員たる妻がその共同体の一員として共に賃借権にもとずく使用収益権能を享受していた夫の賃借権を失わせるという結果を生ずるような形でなした貸主との合意解除はそのような効果を生ずるものとしては効力を有しないものというべく、単に同女の有する自己の本件家屋に対する使用収益権を放棄したものに過ぎないものと解するのが相当である。

したがつて被告は本件家屋につき、従前と同一内容の賃借権を有し、その賃借人として正当な権限にもとづいて占有しているものと認めるべきである。

よつて原告の被告に対する本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 滝田薫)

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